自分の中身をカテゴライズ(その2)

ワタシという人間の成分分類

 思い立ったら吉日、的に。

 エラーになることがわかっていてもトライしてしまう私。きっと客観的には「色んな風呂敷広げて大丈夫?」と見えるかもしれない。でもそれは自分の中にいくつもの面があって、その時その時ひょっこり顔を出す想いを口に出すからで、ビッグマウスなつもりは全然ないのだ。

 考えをまとめる上で、現在の私がいくつの顔を持っているのか、またそれぞれの立場で何を優先して問題解決したいと考えているのかを掘り下げてみたい。

 

おかーさんとしてのワタシ

 第一は何と言ってもコレだろう。「育てにくい子」と心配されていた長男も、多方面からのサポートのお陰で、思いやりのある優しい子に育ってくれている(今のところ)。それより今の旬は次男。低学年のうちは特に目を配ってやらないとね。

 3歳検診の頃から多動を指摘されてきた次男。これまでブログでは殆ど彼について触れてはいなかったが、ここでちょっとずつ吐き出したい。とはいえ、解決策の道筋はある程度見えてきたからまあいいか、という気もしてるが。

 

医療従事者としてのワタシ

 病院勤務の薬剤師。亡き父も医療に生きた人である。父は医療にあまりにも熱心すぎてなかなか家には帰って来ない人だった。お通夜の席で赤の他人から「その人となり」を伝え聞くという有様だ。

 そんな父も、今思えば背中で生き様を見せてくれたと言える(いや、本人はあくまでもやりたいことをおもいっきりやってただけ?)かもしれない。

 とにかく、私が薬剤師という括りに留まらず、もっと広い視野で医療に関わりたい、と何かに突き動かされるような気持ちになるのは、父が私の中にコッソリ撒いた種のせいなのだろうか。と今更ながら思うことがある。

 

ヨメとしてのワタシ

  幼い頃の「おいしゃさんはいえにかえってこない」という刷り込みがあるせいか、ムスメ時代の私は「ゼッタイ医者なんかとは結婚するもんか‼︎」とかなり意固地になっていた。で、数々の荒波を乗り越えて、念願の「医者じゃない人」と結婚した。やりたいことをやる貪欲さは父譲りなのかもしれない(いやいや、やりたくないことはやらない、の間違いじゃないのか?)。

 因みに、数年前まで堅い仕事をしていた夫は、現在小規模ながら乗馬施設の主だ。そして御歳85歳の義母も半同居。年齢の割にかなり自立度は高い方だと思うが、最近ちょっと弱気になりかけている様子。メンタルな面での支えというのは、どうしたら自然に介入できるのか。難しい問題だ。

 

ワタシとしてのワタシ

 背負うものが多くなってくると、自分のことは後廻しにしがちだ。が、自己犠牲的な気分になって責任転嫁するなんて事はしたくない。と言いつつも、割といーあんばいの性格なので、譲歩できる範囲ならあんまり細かいことにはこだわらないタイプだと思う。でも自分のモノサシで「ゼッタイにやりたくないこと」はゼッタイにやらない。

 多分私は隠れエゴイストなのだと思う。

 

といったザックリ分類をもとに、「今はこの立場で考えて書いてますよ」とまとめてみよう。そうでないと色んなことに手をつけて全部やりっぱなしの「片付けられない女」にしか見えないだろうから。

 

               ・・・(やっとこさ)つづく