個性か病気か?
我が家の二人の小僧たちは、それぞれ非常にユニークだ。
その特性は、いわゆる「発達障害」のそれとかなり合致する。
思えば、私の幼い頃の性格面と、共通点が多いことは否めない。
「そういえば私もそう思ったなぁ」とか、「そうそう、そうだよねぇ」など、共感することもしばしば。
特に長男は、「なんて私とよく似てしまったのだろう」と頭を抱えたくなるほどだ。でも、笑いのツボが同じだったりといった、ちょっとしたお楽しみも無くはないのが救いか。
発達障害|病名から知る|こころの病気を知る|メンタルヘルス|厚生労働省
ここからキーとなる文章を引用させていただくと
『生まれつき脳の発達が通常と違っている』けれど、『「先天的なハンディキャップ」ではなく、「一生発達しない」のでもありません。支援のあり方によって、それがハンディキャップとなるのかどうかが決まるといえます。』
・・・つまり、上手いこと発達させるために、通常と違うアプローチを迫られる、という理解で良いのかしら?
これら「生まれつきの特性」は、多分最近になって急に増えたわけではなく、昔から発生頻度的には変わってないであろう(たぶん)。昔は家族に加えて、近所の大人達が様々な関わり合いを持ちうる環境だったようだし、その中には理解者もあっただろう。集団生活の中でも、そういった個性に関しては、ある程度寛容だったのではないかと想像する。
一方で、昨今の日本の学校教育のシステム上、『集団の中の中央値(あるいはそれ以上)に合わせて日々のカリキュラムを進めていかなければならない』事情があるのも、重々理解できる。教師も生徒の得手不得手のグラデーションにきめ細かに対応しきれないし、それを望むのは酷だ。ここで、再度厚労省サイトより引用。
幼児期に診断された場合には、個別や小さな集団での療育を受けることによって、コミュニケーションの発達を促し、適応力を伸ばすことが期待できます。・・・環境面の工夫をすれば、子どもの不安が減り、気持ちが安定し、パニックが少なくなることが期待できます。
そこで「ことばの教室」の出番だ。今のシステムの中で、出来うる限りの対応を取ってくれる学校には非常に感謝している。個別での療育に関しては、学校ごとに対応できる範囲が限られてしまうだろう。けれども、学校にいる時間内は、教師とコミュニケーションを取りながらお任せすることになる。
問題は、家庭での対応。家族全員が理解者なのがベストに決まってるが、そうでないことの方が圧倒的に多い(に違いない)。すると、理解者に負担が全てのしかかってくるし、仕事を持っているなら、なおさら『対応してやりたいのにしてやれない』ジレンマとともに職場に向かわなければならない。
・・・凄く考え疲れたので、続きはまた今度。